「黄表紙」の先駆者・恋川春町の生涯
蔦重をめぐる人物とキーワード⑲
■ヒット作の発表後に幕府から出頭を命じられる
1787(天明7)年、春町は藩の重職・御年寄本役に就任した。その後は武士としての職務多忙のため、文筆活動は次第に減少していった。実務家としても優れた能力を発揮していたことがうかがえる。
そのような状況のなか、1789(寛政元)年には『鸚鵡返文武二道』を発表。これは朋誠堂喜三二による『文武二道万石通』の人気を受けた作品とされる。いずれも、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)失脚後の松平定信(まつだいらさだのぶ)による「寛政の改革」を風刺した内容だった。
『鸚鵡返文武二道』は記録的な売れ行きを示すも、当局の目に留まり、春町は幕府から出頭を命じられた。彼は病を理由に辞退し、その直後の7月に急逝した。享年46。
倉橋家の『由緒幷勤書下書』によれば、同年4月に病気のため御役御免を願い出ており、退役後に病死したと記録されている。しかし、召喚直後の急死であったことから、当時は自害を疑う声も上がった。自殺説は今も江戸文化研究者の間で根強く語られている。
武士でありながら絵師、戯作者、狂歌師として多面的に活躍し、黄表紙という新たな出版ジャンルを確立した恋川春町の業績は、江戸の出版文化史に刻まれる重要な足跡といえる。